西村忠彦

にしむらただひこ

元長野県長野高等学校校長

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 1章 「少年時代~教育者として」

1. 私が生きてきた時代

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昭和はいうなれば戦争の時代でした。とりわけ私は1930年に(昭和5年)生まれましたので昭和の15年戦争のさなかに少年期を過ごしました。私が生まれた頃に満州事変が起こりました。日本は満州に傀儡国家を作り、中国大陸に日本の勢力拡大をねらいました。それが日中戦争につながります。

日中戦争は大陸で泥沼化し、世界中からそのことを非難されます。その後日本は第二次世界大戦に突入していきました。日本みたいな資源のない小国が、アメリカやイギリスを相手に戦争をする訳ですから、勝てる訳がない。しかし、その戦争にのめりこんで行かざるを得なくなったんです。最後はみなさんも知っているように広島と長崎に原子爆弾を落とされて終戦を迎えます。戦争がはじまって、終わる。15歳までまさに戦争の中で大きくなりました。

原爆が落とされて戦争が終わったとき、私は学校動員で石川島芝浦タービンで飛行機の部品を作っていました。昭和20年の8月15日に「明日から工場へ来なくていい、しばらく沙汰あるまで家で待機していなさい」と言われました。 友達とこれから俺たちはどうなるかと考えました。

日本の学校では、アメリカ、イギリスのことを鬼畜米英と教えていました。戦争に負けたら、男は全部奴隷としてつれていかれて強制労働させられ、女性は凌辱されて、慰安婦として連れていかれる。そういう教育をされて、またそれを信じていました。

これからどこへ奴隷として連れていかれてどうなるかわからない、だったら今この時間にしておきたいことをしておこうじゃないかということになって、山仲間と山に行くことになったんです。親もよく許したものだと思います。小学生のときに登った燕岳に登ってそこから槍ヶ岳まで縦走して上高地を降りる。それをして思い残すことなく次にくる運命に従っていこうと決意したのです。

今では考えられませんが、天皇陛下のために死ぬことがこの国に生まれた男子の本分であると思い込むようにされていました。私も10代のはじめの子どもでしたけれど、そのように信じていました。物心ついたときからずっと戦争で、学校教育でもそう教えられてきていたので疑問に思うこともできなかったのです。

戦後180度変わって教育しなければならなくなった当時の教師は辛かっただろうなと思います。生徒たちも矛盾を敏感に感じとって、大人への不信感を胸いっぱいに感じなければならない。良心的な先生は心を病んだかもしれません。私が当時教師だったらどうだっただろうかと思います。内心これはおかしいと思っても、国もジャーナリズムもそれ一辺倒で異を唱えることなど微塵も考えられない時代でしたから。

2. 私の教育者としての命題

松本中学卒業後、私は金沢大学に進学し、長野県の英語の教師となりました。

ここに、私の教員生活に強く影響を与え、私の教育者としての命題となった本があります。「きけわだつみのこえ」という日本の戦没学生の手記を集めた本です。この本の書名となった短歌も有名です。

なげけるか いかれるか

(こんなことおかしいよな、なぜこんなふうに俺たちは戦争に行かないといけないんだと、嘆いたり激しく怒りを覚えたりしながら)

はたもだせるか

(苦しみながらも死ななければならなかった)

きけ はてしなきわだつみのこえ

(海の果てで死んでいった若者の声を聞いてくれ)

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わだつみとは海の声。特攻隊は、飛行機に乗って敵に突っ込んで海の上で死ぬので、海の声としたのでしょう。

当時若者は20歳で徴兵され、兵隊に行かなければなりませんでした。戦時特例で18歳くらいで徴兵された人もいます。私はまだその年齢に達してませんでしたが、あと1、2年戦争が長引けばわからなかったですね。大勢の学生が学業半ばで戦場に行き、特攻隊として敵に突撃し海の上で亡くなりました。

この本の中に、上原良司という安曇野市有明出身の松本中学の先輩の遺書があります。彼は、慶応大学経済学部の学生だった昭和18年12月1日に入営し、昭和20年5月11日陸軍特別攻撃隊員として沖縄嘉手納にて22歳で戦死しています。

上原良司の遺書は、出撃前夜と家を出るときに書かれた遺書の二つが掲載されています。家にあった遺書は自分の引き出しに入れて、横から釘をさして誰にも開けられないようになっていたことからも、当時の様子がうかがえます。

引き出しにあった彼の遺書は、「生を受けて20数年何一つ不自由なく育てられた自分は幸福でした」という書き出しではじまります。

私は明確にいえば自由主義に憧れていました。日本が真に永久に続くためには自由主義が必要であると思ったからです。これは馬鹿な事に聞こえるかも知れません。それは現在日本が全体主義的な気分に包まれているからです。しかし、真に大きな眼を開き、人間の本性を考えた時、自由主義こそ合理的なる主義だと思います。戦争において勝敗をえんとすれば、その国の主義を見れば事前において判明すると思います。人間の本性に合った自然な主義を持った国の勝戦(かちいくさ)は火を見るより明らかであると思います。日本を昔日の大英帝国の如くせんとする、私の理想は空しく敗れました。この上は、ただ日本の自由、独立のため、喜んで命を捧げます

と、彼はこんなことを遺書に書いたんです。
また彼はこう言っています。

私は死んでも靖国には行きません。私は天国に行きます、天国に行けばたつ兄さんに会える。自分の密かな恋人のきょうこさんに会えるだから私は天国に行きます

天皇のために死ぬことが日本男児の本分であり、死ねば靖国で神と祀られると教育され信じ込まされていたはずですが、彼はそうではなかった。
出撃前夜の「所感」にはこのように書かれています。

栄光ある祖国日本の代表的攻撃隊ともいうべき陸軍特別攻撃隊に選ばれ、身の光栄これに過ぐるものなきと痛感致しております。思えば長き学生時代を通じて得た、信念とも申すべき理論万能の道理から考えた場合、これはあるいは自由主義者といわれるかもしれませんが。自由の勝利は明白な事だと思います

この時代にこんなことを言えば当時遺書であっても検閲をうけていたので通常は届くはずがありません。なぜこれが家族に届いたかというと、そのときたまたまいた朝日新聞の新聞記者が、明日は出撃という前夜に、特攻隊員たちがくつろいでいるなかで、ひとりで黙想している若い兵士に気づき、「あなたの思いを率直にかいてくれたら私は責任をもって郷里のご両親に届けますと言ったからです。その新聞記者が高木敏郎。検閲の目を盗んで家族に遺書を届けました。

最後はこう結ばれています。

明日は一人自由主義者がさっていきます。彼の後姿は淋しいですが、心中満足で一杯です。言いたいことだけいいました。無礼をお許し下さい

天皇陛下万歳でも、靖国神社でもなく、自分の死の意味を言い聞かせて彼は特攻隊として短い生涯を終えました。

こんな全体主義的な、人間が自由にものも言えないような国が栄えるわけがないと言って死んでいった上原良司。
この先輩たちの思いを語り継がなければならない、そして、こういうことは二度とあってはならない。これが、私が教育に携わる者としてずっと強く考えていたことでした。

※出典…『ワイド版岩波文庫138 きけわだつみのこえ 日本戦没学生の手紙』
16~20ページ、366~378ページより引用

 2章 「不安の時代…かつて辿った道と現在」

この章は西村先生に、聞き手が質問をする形でお話をすすめました。

 あの時代、日本はなぜ戦争に向かったのでしょうか?なぜ誰も変だと言えなかったのでしょうか。

この国がなぜ全く勝つ見込みのないような戦争に国を挙げてのめりこんでいってしまったのか、この先の平和な社会を考えるときに大事なことだと思います。

当時、イギリス、フランス、ドイツはアジアに植民地を持っていました。世界情勢のなかではだいぶ遅いほうですが、日本も欧米列強にならって国を豊かにしようとしました。あのとき日本は貧しかった。今からでは本当に想像がつかない貧しさがありました。資源のない小さな国が、国力をのばして豊かになるには、軍備を備えて大陸や東南アジアに勢力をのばしていくしかないと考えたんです。その頃エネルギーが石油になってきており、石油がなければ工場も動かせないし、飛行機も飛ばせないこともあって、日本もヨーロッパの国と同じように帝国主義的な政策が押し進められてしまいました。貧しさによる未来への不安。明日食べて行けるのかこのままではわからない、そこをなんとかするためには植民地が必要、そのためには軍隊が必要、それが戦争と結びついてしまったのです。

国をあげて人々を戦争に突き進ませるためには、国民の人権とか幸せは無視しして一つの方向に進まなければならないということになります。そうなると当然それは違うと考える人がいるわけです。それは国にとって都合が悪いので、全て黙らせるために国策として、国の方針に対して異議を唱えさせないような体制を作りました。それが、みなさんもよくご存知の治安維持法です。その後国家総動員法ができ、国の方針に異議を唱えるものは捕まって、ひどいときには死に至らしめるような拷問をうけました。小林多喜二という作家の話が有名です。彼は小説で国家体制を批判し、思想警察に捕まって拷問の末殺されました。国の意に反するとこうなるぞという見せしめのような殺され方でした。だからおかしいと思ったとしても言えない状況でした。

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 戦争を知らない世代が増えている今、また日本が戦争に突入する可能性はあると思いますか?

現代の人は、例えば老後はどうなるか、経済はどうなるのか、就職はできるのかという未来への不安があります。不安は戦争をあおるひとつの原動力です。

ドイツを例にとると、ナチスは第一次大戦に負けて多額の賠償金を負うことになり国全体が困窮しました。そのころドイツにはワイマール憲法という優れた憲法がありましたが、この貧しい状況を打開するためには国力をつけなければならない、そのためには人権を守っていられない、今こそ国民が力を合わせて団結しなければならないというアジテーションを行ったのです。そしてあの理性的なドイツ人がそっちに流れてナチスの支持者になった。そこから第二次世界大戦の悲劇がはじまります。

世の中の不条理、不合理がでてきたときに、歴史的に行われてきた権力がそれを乗り切る常套手段があります。それは国民の目をそらすこと、不安から目をそらす。今はまさにそういう感じです。

今の不安を解消するためには憲法を改正しなければならない。「お隣の国がせめてくるかもしれないから憲法を改正して国を守れるようにしましょう」ということが今まさに言われています。これは戦前の状況と全く同じです。今の日本とドイツの戦前の状況が似ているんです。

戦争の怖さとかばかばかしさ、一億人の人間が一斉に同じ方向へ向かう恐ろしさ。大人はそれを伝える責任があります。

でもそれは過去の話で今は関係ないのかというとそうじゃないんです。今の政治状況をみると、戦争の犠牲を乗り越えてできた日本国憲法を改正しようという動きもでてきています。これは最終的に軍隊を持つことにつながり、日本人がまた戦争に行かなければならなくなるという危険性があります。

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 今の時代と戦時中のことが重なり率直に危険を感じるとのお話ですが、何か光というか希望はありますか?

自由です。今は昔と違って、まだ自由に自分の意見を言えるし、他国の情報も容易に手に入ります。でもそういう自由があっても言う権利があっても一人ずつがモノを言ったり考えたりしなければ戦前の時代と変わりないことになります。今はその意味であの時代と同じくらい危険な状況であるとも言えます。私は危機感を感じています。私は、憲法記念日に今憲法を安易に変えていいのかという意見広告をしようとしています。この国の人たちが真剣にそういうことを考えて欲しいというのが、今私が一番思っていることなんです。

特に教育が大切です。自分の考えをしっかり持って自立できる教育が大事です。なぜ戦前の日本国民が自由を捨てて一斉に戦争を肯定する方向にいってしまったのか、もう一度よく考えてみる必要があります。

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 3章 「聖書と人生」

1. キリスト教との出会いから洗礼をうけるまで

キリスト教との出会いは、私の両親が私をキリスト教系教会付属の幼稚園に通わせたことからはじまります。

両親とそのことを話したことはないので、実際のところはわかりませんが、昔の人は、人間の想像を超えた大きな何かから生かされているんだという考え方をしたと思います。天から授かった命。そういう意味での哲学やものの道理のようなものが、キリスト教がわかりやすかったんだと思います。

小学生のときは、普段は普通の学校にいって、日曜日は教会の日曜学校で宗教的な道徳的な教育を受けました。このときはもちろん自分ですすんで行ったわけではないです。

私が育ったのは戦争の時代でしたので、キリスト教は欧米諸国の宗教であり敵性国家の宗教だから遠ざければならないという国の方針でした。戦争中は天皇が頂点、神道が国家の宗教、信仰の自由も抑圧されていました。

戦争が終わって18歳のときにずっと尊敬していた牧師さんが、ある事情で松本からこころならずも東京へ去って行くことになりました。戦争中にキリスト教が弾圧されているなかで教会を守っていることは大変だったと思います。僕はあんな苦しい思いをして教会を守ってきた牧師を戦後世の中が変わったにも関わらず、戦争中の行為がけしからんみたいな風に追われるのがなにか不条理だと感じました。そのとき私は18歳。一人前の大人としてまだモノが言えませんでした。

私は、かっこよくいえば反骨精神があって、抑圧されると反発する、そういう人間でした。そういう人間の個性としてお許しいただきたいのですが、そのとき自分には何ができるのかと考え、彼を追いやる大人たちがけしからん、この大人たちへの見せしめのためにこの牧師さんから洗礼を受けようと決め、キリスト教の信仰を生涯にわたって持ち続ける決意表明をしました。

私は英語で聖書が読みたいとその牧師さんにお話をしてありました。戦後で出版物が途絶えていた時代でしたが、その牧師さんがどうにか調達して英語の聖書を僕に餞別としてくださったんです。

そこには、「我らは四方より艱難を受けれども窮さず、なさんかたつくれでも希望を失わず、昭和23年2月お別れに際して 西村忠彦くんへ」と書かれていました。そのときから65年続いて今にいたっています。

本来私のような理由で洗礼を受ける人は少ないですし、信仰的に考えると不純な話です。ただ、もしあの時洗礼をうけていなければ、哲学としてキリスト教を理解しても信仰として決意表明することは私にはできなかったのではないかと思います。神様は私に若気のいたりのような機会を与えてくれて、そこを飛び越えることができるようにしてくれたんだろうと今は思っています。

体を病んでから信仰を得ている方は多いです。絶望から自分の心を奮い立たせるために信仰を持つ、一人ずつ大切な命を託されて生きているんだっていう思いです。

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2. 信仰について

キリスト教の祈りは、自分は自分一人で生きているのではなく、大きなものの存在の中で命を与えられていかされているという教えからくるものです。私たちはそのように思うべきであるのに、「俺が俺が」「俺さえよければ」という自分が一番という思いがあります。それが人間の罪、「原罪」という人間が生まれながらにもっている罪という考えです。日本の思想にそれはありません。日本語で「罪(つみ)」とは法律の中でやってはいけないこと、罰せられることです。英語には罪という単語が二つあります。一つは犯罪などによる罪を表すCRIME。罰せられることで罪を償えます。もう一つが原罪を表すSIN。神様は、人間に許しを与えるためにキリストを生まれさせ、キリストは人間の罪を贖うために十字架にかかって死を迎えます。その死と復活を信じるのがキリスト教の信仰です。

私は、人生で行き詰まると、聖書の一番最初のジェネシスという創世記を読みます。この世界がどうやって神の意志でできあがったかという部分を、大きな声で読むんです。「 In the beginning God created the heavens and the earth」天地創造のところを読んでいるとこの大きな世界を作った話から比べると自分の悩みは小さいものだという気分になってきます。

私は職業として英語の教師を選んだ訳ですが、英語の聖書がきっかけになったと思っています。

聖書には旧約と新約聖書があります。旧約はキリスト以前、キリスト誕生が大きなエポック、天地創造からキリストが生まれるまでに至る歴史を記述したのが旧約聖書で、キリストが生まれて死んでいく、そのあとのキリスト教を語るのが新約聖書。そういう構成になっています。旧約聖書の語る壮大な世界があり、理屈ではなく自分の悩みや不安を乗り越えていく力を与えられ、生を与えられているという気持ちになるんです。大きな声をだして読むことで心が晴れて来るってのは、信仰というよりもっと原始的なものなのかもしれませんね。

でも、キリスト教徒だからといって、いつもそれだけでもないんです。私は12歳のときに母が亡くなりましたが、母が「案ずるより生むがやすし」とよく言ってました。困難を通り抜ける力を自然に与えられるから大丈夫だよって、困ったときにそれがふと浮かんで、おふくろが草葉の陰で守ってくれるさって思ったりすることもありました。キリスト教の信仰を思っていても、そんなことを思ったりするんです。人間って一筋縄ではいかないんですよ。

人間にとって自分の親や先祖を大切にする考えは、自然なことだと思います。壮大な人のつながりのなかで、自分の命があるのは事実ですから。

仕事を辞めてから、実家の墓地の石碑と位牌をふと照らし合わせてみたら、一番古い仏様は元禄時代。私の命は350年前のご先祖様から続いているんだなあと思いました。そこから命がつながって今の自分がいると思うと、自分だけで生きているのではなく、自分を超えた大きなものから与えられた命であると自然に思えるのではないでしょうか。

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 4章 「幼子(おさなご)たちと親たちへの思い」

1. 幼児教育と自由と自立

私が高校を退職したあと勤務していた鈴蘭幼稚園は、カナダからやってきた宣教師がはじめたキリスト教主義の幼稚園です。

高校教師としての私の命題は「戦争と平和を語り継ぐこと」と「自由と自立」

本当の自由と自立のためには自分で自由に主体的にものを考え、迷いながら自分で判断し、間違ったらそこからまた考える、そういうゆとりというか自由が大切だと思います。

幼稚園の園長をしているなかで「あー私が高校教師時代にあの若者たちに思いを託して一生懸命やってきたこと、格闘していたことの源流はここにあったんだ」と気づかされました。「三つ子の魂百まで」と言いますが、何かが育つにはそれに適した時期があります。幼児期の育ちや教育、もっと言えばそれはお母さんの体内にあるときからはじまっているのかもしれません。お子さんとそのお父さんやお母さんと接するなかで、自由と自立のもとがここに養われるのかと実感したのです。

鈴蘭幼稚園は自由に子どもたちを遊ばせる方針なので、ぶつかりあいもあります。いろんなことがあるんだけど、そういうことが大切にされていていいなと思い喜んでお話をお受けしました。

人間が生きていくには空間、「間(ま)」が必要ですよね。間というのは空間、時間、人の関係などですが、それぞれの距離感をどうとるかの経験が大切だと思います。間(ま)を管理されすぎると、ぶつかり合うことも葛藤もない。そういう間のない世界で育つとどういう大人になるかちょっと心配です。

2. 子どもたちを大切にする意識

昔は子どもたちには自由があって、帰ってきたらかばん放り出して外へ行き、そのへんでむれ遊んだりしたものです。親でも教師でもない地域の大人が、知らない子どもでも見守ってくれるだろうという安心、信頼が当たり前のこととしてありました。

学校の帰りにみちくさをしながら、川に落ちたり木に登ってたんこぶつくったりできたのも自然への安心感があったから、子どもをそういうとこにおいておけたんです。今はそういうことが難しい環境です。大人がみんなで子どもを大切にする意識が変化してきている。その象徴が原発だと思うんです。

今は経済が最優先です。またあのような事故があれば大変なことですし、事故がなくてもまだ放射能がでていて、その結論がでていないまま原子力発電所が存在しています。核燃料の処理の方法は決まってないので、地中深く埋めて、だんだん半減期で放射能が弱くなるのを待つしかないんです。

今の子どもたちに未来の子どもたちに今の大人のツケを平気でまわしている。今の目の前の経済のために。これはなんとしてもなくしていかなければならないことです。かつて原子爆弾がおとされたという被爆体験をもちながら、こういう世の中を作ってきてしまったことに、私は深い責任を感じます。

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3. 木を見て森を見て

幼稚園の園長をしている間は、この子どもたちの未来を平和で幸せなものしていく責任を心のなかに持っていました。

「木を見て森を見ず」ということわざがありますが、私はお母さんたちに「木を見て森を見なければいけない」とよく言いました。自分の目の前の子どもを大切に育てるということは自分の子どもの周りも大切に育てること。

子どもを一生懸命に育ててきても戦争がはじまったら戦地に行くことになる。木がはえている森が平和でないと木は幸せに育つことができないんだよって。この木が健やかに育って命をまっとうするためにはどうあらねばならないか。そういうことが大切なんじゃないでしょうか。

今の便利さは、目の前の木がすくすく育てばいい(=目の前の便利な暮らし)でも森の将来には処理できない核の廃棄物があり、借金だらけ、その不安から戦争になるかもしれない。だとするとせっかく育った木もどうなるかわからない、それを喜べるかということです。

 5章 「今の夢」

木を見て森を見る社会。木が大切に育てられて、木が育つ森が平和であること。森というのは、太陽の光だったり、雨の恵みだったり、風の爽やかさを分かち合う姿であったりという、ごく当たり前の自然の姿。この世の中がそうあって欲しい。そういう方向に進んで欲しいと思います。

原子力発電所など科学の発展の力を利用しているつもりが人間の力ではどうにもならないものを作り出したことを反省し、そのもとにみんなで安心・安全な世界を作っていけたらと思います。子どもが健やかに育つための私たちが生かされている世界の平和を目指して。そのために、だめなものはだめと声をあげていかなければと思います。今は幸福なことに自由にモノが言える社会なのですから。

写真 / ヨシダトモユキ
文章 / 手塚さゆり